語りつづる甲津原史

インタビュー

昭和8年、甲津原で生まれ育ち86年、高橋大吉さんに聞く

●文中の表記説明

*在所 - 集落のこと
*峠越え - 昔の生活道路は峠越えの道のみで、おもに3つの峠を越えて岐阜県の揖斐谷方面と交流していた。
品又峠〜久瀬村日坂、進穂峠〜坂内村諸家、鳥越峠
*コバ - 今でいう組、昔は在所を東西南北にわけて4つのコバがあった。現在は2組
*若い衆 - 今の中学生~26才のこと(マイゴメ、コマエ、幹事の総称)
*マイゴメ(前髪)- 若い衆の見習い期間を指す、今の中学生頃(13、4才〜)
*コマエ- 今の18才~(マイゴメから元服するとコマエになる)
*幹事 - 若い衆の年長から8人
*オコナイ - 集落にながく続く大切な神事
*文中に出てくる「本」とは、『落人と木地師伝説の地 甲津原のまちおこし』(法雲俊邑著)

はじめに

鈴:今日はどうぞよろしくお願いいたします。私は長く京都で生活していましたが、夫の仕事がきっかけで甲津原に住むことになり、引っ越してきました。
ここは移住者も多くないですし、よそものがうまくなじめるのか、初めはとても不安でした。そんなとき、いろいろ気にかけてくださる方がいたり、山菜をいただいたりして、気持ちも少しずつ落ち着いてきて、生活がはじまりました。

高:
今は在所の行事も減ってしまったし、みんな下に仕事へゆくから、なかなか人とまじわるきっかけがないね。気にかけてくれる人がいてよかったですね。

鈴:こちらへ来る前は、みなさん専業農家なのかと勝手に思っていましたが、みなさん兼業でした。毎日車で仕事に出かけていますね。

高:一昔前まではお米づくりだけで生活してたけどね。

生い立ち・家族・自給自足の暮らし

鈴:早速ですが、高橋さんは甲津原でお生まれになられたかと思いますが、在所には産婆さんがいらっしゃったんでしょうか?

高:もちろんですね。免許を持った人ではないけど、昔はそういうことが器用な、必ずうまいこととりあげてくれるという人がいたんです。陣痛がきたら来てもらって、その頃は当たり前でした。僕の長男まで在所で生まれています。

鈴:近くに上手にとりあげてくださる方がいると安心ですね。ご長男が生まれたのは昭和何年ですか?

高:昭和35年です。そのあと以前の伊吹町に施設ができて、長女と次女はそこで生まれました。その頃は車があったので、陣痛がきたら家を出て、便利でした。
僕は兄弟が6人いたんですけども、上4人は女ばっかり、5人目で男がでてきた。家では「宝もんがでてきた!」って、大変なことでした。
姉ちゃんが子守をするときは「あんたら4人とこの子1人にかかわるくらい大事な子や、絶対に大事にせなあかん」と、いつもおやじに言われたようです。そのあと弟が生まれて、女4人、男2人になりました。

鈴:ご両親は日々どのようなお仕事をされていたのですか?

高:田んぼと炭焼きで、田んぼは在所でも1、2の面積をもっていました。1町ほどあったので(1haくらい)家で食べる分と、出荷する分をつくっていました。百姓には合間があるから、合間には炭焼きをしていました。

鈴:畑もされていましたか?

高:もちろん、キュウリもナスもエンドウ豆も大豆も、蕎麦も自家用につくっていました。種も買いに行くのが大変な時代だから、とっていました。
麻の種も必ず来年の分をとらなくてはいけませんでした。
麻は母親が栽培していて、在所に住んでいる誰もが、畑があれば必ず麻をつくっていました。すべて自給自足やから、着るものも自分たちでつくっていました。

鈴:麻は種をまいてから服になるまで、大変な作業でしょうね。

高:それは大変です。在所のなかに、1コバ(組)に1つずつ、蒸し器があったんです。

鈴:伝承館に展示されている写真を見ると、大きな釜に麻を入れて、大きな蓋をかぶせて蒸されていますね。

高:あの蒸し器では麻だけでなく、紙の原料になるコウゾ(楮)も蒸したんです。コウゾは蒸して、皮をはいで、乾かして、乾くとぱらぱら~と皮だけとれて真っ白になる。それを峠を越えて美濃へもって行き、美濃紙に漉いてもらいました。
紙を漉いてもらいに行く係の人というのがいて、単独で行くと雪が降って遭難するかもしれないから、雪が降る前にみんなに伝言して、一緒に出かけたんです。峠で遭難して亡くなった人もいるんですよ。

3本の峠道は生活道路

鈴:高橋さんもコウゾをもって美濃へ行かれたことはありますか?

高:ありますよ。やっぱり往復、峠を越えないといけないから、家のなかでも足腰が強い人が行くということになっていました。その頃は峠越えは当たり前でしたから、朝早くに出て、日帰りです。

鈴:美濃へ行くにはどの峠でしょうか。

高:新穂峠です。新穂峠は一番の生活道路でした。牛も馬喰も通いましたし、繭も向こうからもってきました。

鈴:鳥越峠の名前の由来は、渡り鳥が通るためだとお聞きしたことがあって、霞網漁をされていたのかどうかはご存知ですか?

高:そういうことも聞いています。鳥越峠を渡り鳥が通るということは、低いんですね。そして、越えたところがひらけている、渡りやすいことを鳥もわかっている。けれど、僕たちの時代には鳥越峠はあまり通れる状態ではなかったです。
もっと前は、鳥越峠と新穂峠と品又峠の3本が主流で、峠を越えた地域と交流をしていました。

鈴:もう1本の峠、品又峠を越えられたことはありますか?

高:ありますよ、昔はあそこが主流でした。あそこを越えるときは喉が乾いて非常に困ったということで、お坊さんが百文出して、岩から滲み出てくる岩清水をためる池をほらせたそうです。
「百文池」という名前の池で、旅人が助かったそうです。当時は水筒もせいぜい竹の筒くらいですから。
峠を越えたところが非常に急で危なくて、今でいう流しの人が三味線を落としてしまったことから「三味線落とし」という名前がついた場所があります。三味線を落としてしまうくらい急だったんです。

小学生時代・戦争の記憶

鈴:小学校はどこへ通われていたのですか?

高:ここに(甲津原交流センターの場所、実際の地面は1m50cm下にあった)甲津原分校の敷地があって、校舎と運動場がありました。ボールをつかうと、みんな姉川へ転がっていったんです。

鈴:同級生は何人いましたか?

高:わたしの学年は15人、女6人、男9人でした。多い時は、小学校全体で5~60人いました。戸数が60戸以上ありましたから(現在は30戸、約80人)、終戦間際は疎開してきた人もいて、その時は70戸以上あったやろうね。

鈴:どのあたりから疎開されてきて、どこに住まれていたのですか?

高:名古屋、大阪、岐阜…名古屋が多かったね。親戚を頼ってきて、空き家とか納屋とかに住んでいましたね。

鈴:戦争の記憶はありますか?

高:僕が6年生のときがちょうど昭和20年で終戦でした。卒業が昭和20年の3月の終わりでしたので、一番戦争が盛んなときでした。そんなときに写真を写すなんてとんでもないと、僕らだけ卒業写真がないんですよ。
終戦の8月までは激しくやってましたからね、もう最悪でした。ちょっとエピソードがあって、炭焼きをやってますと、晩も火をたかないと炭にならないから、そうすると敵軍は火の明かりを街と間違えて、そこへ焼夷弾を落としたんです。その不発弾を拾ってきて、爆弾はこういうものや、間違えて触らないようにと教えてもらったことを覚えてます。

鈴:このあたりの地域では、あちこちで炭焼きをされていたでしょうから、こわいですね。

高:在所では黒いものをかけて暮らしてましたが、炭は火を入れてから10日間で完成するのでそれまで消せない、炭焼きも生活やからとやってましたところ、たまたま。

鈴:そのとき亡くなられた方はいらっしゃったんですか。

高:たまたま離れていて大丈夫やったという話です。

鈴:けれど、戦争に行かれて亡くなられた方がいらっしゃいますよね。

高:戦争では結構亡くなっています。

鈴:そのときはやはり重たい、辛い空気でしたでしょうか。

高:それはやはり、みんな長男でしたからね。よく覚えているけど、あんなにいいお兄ちゃんたちがみんな亡くなるなんてと思っていました。その世代だけがごろっとあいてもうてしまった、人がいなくなった。

鈴:戦中戦後の生活には変化はありましたか。

高:生活は変わらなかったね。ここはもう別天地でしょ。その頃は曲谷とは付き合いもなかったし、峠を越えて美濃との付き合いが主でした。
曲谷へは石峠という谷に沿った険しい道を越えて、谷筋をぽんぽんとわたりながら歩いて行きました。(曲谷、下流域への車道ができたのは昭和36年頃)

鈴:わたしの祖母は1910年生まれ、97歳で亡くなりましたが、戦後は食料の調達の大変さ、闇市の話などを聞きましたが、ここはすべて自給自足だから、みなさん困らなかったのですね。

高:食べるものはあったね、米はありあまるほどあった。耕地があって、田んぼも山もあって、自給自足が楽にできた。
そのかわり、谷の水をそのまま流して田んぼをつくっていたから、田んぼの半分は青立ちです。田んぼの水尻(みずじり)は実っても水口(みなくち)は青立ち、実らないくらい。精米すると青米で、米が太って完全に食べれるのは一反で2俵か3俵だった。
今は8~9俵とれるけど。山のなかだと2俵くらいしかとれなかった。田んぼの入口には牛が食べるヒエを植えて、ヒエは水が冷たくてもわりとできたから食べたりしました。

鈴:昨年の夏、姉川で遊びましたが、夏でも川の水はとても冷たいですね。

高:今は圃場整備をして、重機で底をつくって固めているから、水が冷たくても大丈夫なんです。昔は川から田んぼに水を入れたら入れっぱなしで、とめたらすぐに引いてぬけてしまう。在所の下で水喧嘩をするような年は、日照ってようけ実ったんです。冷夏やったら本当に実らなかった。

きれいに圃場整備された現在の田んぼ

根づいてきた俳句づくり・能・民謡・浄瑠璃

鈴:本によりますと高橋さんは俳句がとてもお得意ですが、俳句をはじめられたきっかけを教えてください。

高:在所には江戸時代に船川仙左衛門さんが江戸の白木屋へ奉公に行って、蜀山人(太田南畝)に弟子入りして、狂歌(こっけいを主とした和歌)をつくった流れがありました。

鈴:ではその流れで、みなさん好んで歌をよまれていたのでしょうか。

高:昔は小学校高学年から高校へあがるころの男性を「若い衆」と呼び、みんな義務的に青年会に入っていました。そうでないと、在所として一人前とは認められなかった。
僕らが青年会のときに好きな人たちだけで文芸部をつくり、そのなかの一つに俳句の教室があって、雄弁会をしたり、そのときにいた先生がいろいろ教えてくれました。

鈴:ご両親やおじいさんから教えてもらったのではないのですね。

高:昔の人はよしこの情歌(江戸時代の流行歌)とか、都々逸(どどいつ)、短歌、俳句などを周期的にやっていました。倉に残ったものをみていると、やはり親父も俳句をつくっている、親父もやってたんだなあと思った。
こういうところは娯楽がないから、俳句、浄瑠璃、俄(にわか、即興でおこなうコント)、芝居をやっていました。とくに在所でお祝いごとがあるときには、芸の達者な人は即興で俄をやったり、情歌をよんだんです。
若い人はお祝いごとのある夜に、一升瓶を竹竿にくくりつけて、そこの家にちなんだお祝いの言葉をよみこんだ俳句や情歌を瓶に貼って行くんです。
身を隠して、障子を少しあけて、瓶だけ部屋に突っ込むんです。そしたら、向こうの世話方の人が「お祝いに来たぞ〜酒釣りに来たぞ〜」と言って、よんでくれる。上手だったら、うけたら、一升瓶にお酒をなみなみとついでくれるんです。にぎやかな盛りの場でないと面白くないんです。気心が知れた人ばっかりやしね。

鈴:面白いですね、それは高橋さんもされていたのですか?

高:仲間とよくやっていた。楽しかったね、俳句などは得意やったからつくってくれと頼まれた。天満神社には室町作といわれている能面が10面、御神体として納められてます。能面があるのも、各家ごとに能が舞えるようにと、どの家も床が縦張りになっていて、そこで練習したそうです。途絶えてしまったけど、能を舞っていたということですね。

鈴:こんな山奥の集落で、伝統芸能や文化が息づいてきたことが不思議です。豊かですね。本には観世流の能楽師の方が住まれて、子孫が受け継いできたと書かれていますが。

高:小倉左近之太夫という舞の上手な人がいて、観世会館へ能舞の見学に行ったときに「昨日は足らず、今日は過ぎ、今日は昨日の足しまえか」(今日は昨日より足が一歩たりない)と口を出した。そしたら「お前が舞ってみろ」と怒られて舞ったところ、観世会館の舞い手より上手やったと言われています。

2018年3月10日〜6月3日にMIHO MUSEUMで開催された展覧会「猿楽と面−大和、近江および白山の周辺から−」で、甲津原の天満神社に納めらている10枚の面が展示されました。

鈴:そうですか、神楽は舞われていたのでしょうか。

高:昔は非常に盛んだった。ここは別天地、こんな場所だからね。

鈴:引っ越してきてすぐ、配りものの担当になって、家族で在所をまわりました。高橋さんの家の横に雰囲気のある小屋があって見ていると、夫が「ここは大吉さんが俳句をよんだりするサロンだよ」と教えてくれました。ながめのよさそうな窓が印象的で「なんと素敵な空間!」と思いました。

高:あそこは僕の城です、勉強部屋です。昔は順番に家の座敷をあけて、みんなで集まって句会をよくやった。はじめは十数人いましたが、減ってゆき、現在は山崎智さんと僕の2人になってしまいました。
歌をつくることが根づいています。世代がかわり、じょじょにやる人もなくなっていったけど、趣味でずっとつらぬいてきました。歌をつくるのには頭をつかうから、ボケずにこれました。
ここは大火が何度もあって古文書がみんな焼けてもうとるから、お寺もお宮さんも焼けとるんですから、なにも残っていないんです。こんな小さな土地に百何十戸も建っていたから、本当に密集してます。ちょっとした平地からずっと山の上まで家が建っていたそうです。

くりかえされる大火、「結」(ゆい)のこころ

鈴:そんなに家が密集して建っていたんですね。

高:茅葺だから、一旦出火したら一気に燃えうつり、ひろがります。奥伊吹ふるさと伝承館(江戸時代初期の建物)だけは、洗面橋の橋詰め(地面はもっと川に近く橋も丸太橋だった)、少し離れたところにあって、川風が西からふいて、こっち(現在の家々が建つ場所)は類焼して、本当に不思議に伝承館だけぽつんと残ったんです。
それと、伝承館の柱はすべて栗の木なんです。昔は家の土台にはずっと栗の木をつかってました。杉や檜はくさったら倒れてしまうけど、栗は鉄道の枕木にも使われた、丈夫で腐らない木です。
山で炭焼きをするときは、柱になるような栗の木は絶対に切ってはならないと言う掟があったんです。縦木(たてぎ)と言うんですが、大火があったらこれをすぐに切ってくる。伝承館がたおれなかったのは、理屈が合うんです。

くりかえされる大火にも焼けずにのこった奥伊吹ふるさと伝承館

鈴:くりかえしくりかえし火事があり、家が燃えてしまって、肩をおとして、またすぐにつくりなおされていたのでしょうか。

高:ここには「結」(ゆい)といって、厳しい自然のなかで、相互に助け合って生きてきました。春になって屋根葺きといったら、在所の人みんなでやってました。
茅葺は30年ほどもちますけれど、だんだん痛んできて水が落ちてくると、そこへ茅をさしてもらうんです。それでも痛んでくると、片側をかえたり、部分的になおしてました。茅原はとても大事にしていて、そんなに量がなかったから、総葺き替えはめったにありませんでした。お金の帳面と同じで茅の帳面というのがあって、そこへ茅の貸し借りをつけていました。

鈴:茅も栽培されていたのですか?

高:つくっていました、とても大事でしたね。雪が降る前になると刈って、家の軒などに蓄えていました。すきま風が入ってくるので、雪囲い兼保温のために軒にはぐるりと茅をたててました。茅がない家や、屋根を吹き替えるときに足らない分は、茅の帳面に「どこどこへどれだけ貸しました」と書いて、貸し借りしていました。今でも帳面があります。茅はようけとれないから、貸し借りが多かった。

鈴:貸した分は必ず返してもらえるんですか?

高:返してもらえます。今年はつかうから返してくださいと言えば、そこの家になければ、どこからか借りてきて返してくれる。
行徳寺も屋根が大きいから、毎年あっちもこっちも少しずつ補強していて、「今年はこれだけ出してください」とみんなで持ち寄っていました。甲津原独特の「結」の精神です。なにかにつけて助け合う、田植えにしてもなんでも。

失われていった暮らしと仕事

鈴:囲炉裏はどのようにつかわれていましたか?

高:お竃(おふど:かまどのこと)もなかったから、囲炉裏一つで人間が食べるものも、牛が食べるものも、すべてつくっていた。一番最初にご飯を炊いて、お味噌汁をつくって、おかずをつくって、一番最後の寝る前に牛の食べるものを炊いた。
昼は田んぼと炭焼きに行かなあかんから、晩にほとんど食べものをつくって、お弁当は木のメンパ(わっぱ)におにぎりとおかずをつめて、テゴに入れて持って行った。ご飯はお櫃に入れといたら美味しいし保温もできる。冬になると藁で編んだ畚(フゴ)に入れておくと、1日あたたかくて保温になった。

メンパ

フゴ

鈴:牛の食事は1日1回ですか?

高:炊いたものは1回、草藁と米ぬかや豆の殻をいっしょに炊いてあげた。あとは草や藁をそのままで食べた。草刈りは朝刈りといって、朝飯前に必ず嫁さんや子どもが田んぼの畦で新鮮な露のついた草を刈ってきて牛にあげた。しなびたのは食べなかった。
炭や焚くものはいくらでもあって不自由しなかったけれど、燃料革命がおこって、炭もだんだん売れなくなった。電気、ガス、化石燃料が入ってきてから炭焼きはやらなくなった。

鈴:炭焼きはいつ頃までされていましたか?

高:50年くらい前に終わりました。昭和40年代でした。麻織物もそれくらいに終わった、今は年寄りの人がいなくなってもうできません。

鈴:風習や技術が途絶えてしまい、もったいないですね。

高:僕の母親も夜遅くまで起きてやっていました。麻が大麻の関係で県の許可を受けなければ栽培できなくなって、毎年収穫すると根っこと葉を持って行き、見てもらわなあかんかったり、めんどくさくなってやめてしまった。

鈴:本当にもったいないです。

高:今でもオコナイのときは、家にあるテナシ(手なし)とユキバカマ(雪袴)を着ています。あれは貴重ですよ。浅井町で染めをされてた方が亡くなられて、藍染もできなくなってしまったから。女の人は半着もあったけど、普段は長着を着てエプロンをかけていた。男でも女でも、着物が新しいうちは結婚式とかお葬式へ長着を着て行った。お葬式のときも長着を着て、手ぬぐいをかぶってお悔やみに行ったんです。古くなったら山へ着て行き、最後は刺し子といって、麻糸で縫って縫って縫って、生地も厚くごつくなって、雪の中へも着て行って、最後の最後までつかっていました。

鈴:冬に着ていたものは、今の衣服と違ってやはり寒いですよね?

高:猟師の人はユキバカマの内側に藁をもんで入れて、今のダウンジャケットみたいにしていました。

鈴:昔は冬になって雪が積もると、あまり外出されないんですか?

高:それは冬ごもりといって家にこもってるんや。次の夏に備えてゆっくりと寝て、食べて、十分に力を蓄えてるんや。昔はそういうときに女の人は麻をつむいで織って、男は藁仕事をしていた。一年を考えて使うものをすべて冬につくる。働くための草履やわらじ、雨のときの蓑、藁履とか、冬に使うものも。子供の分も、小さいのは女用と言って軽い、そして男用とある。
炭焼きをやっているから、完成した炭を包む茅簀(かやず)も編んでいた。多い人は何百俵、千俵も焼いた人がいるという話で、包むものもそれだけ編まないといけなかった。

狩猟と採集

鈴:昔は猟で獲った動物を囲炉裏の上にかけて、燻して保存されていたそうですね。

高:猟師の家ではそうだったけど、僕の家は年に1~2回、猟師のところでお肉を買ってきて、大根と炊いて食べさせてもらった。お魚はあったけど、お肉のタンパクはなかったです。クマ、イノシシ、ウサギ、キジ、山バト、お肉を食べたいときは猟師の家に行きました。

鈴:猟師さんは何人くらい、いらっしゃいましたか?

高:5~6人はいたんじゃないかな。クマを売ったお金で田んぼを5反買った人がいて、その田んぼは熊田(くまだ)と呼んでいた。クマの胆はすごい高いからね。
ウサギはよく罠をかけて獲りました。獣は同じところを通るでしょ。山へ行くときは、帰りに罠をかけておくと、翌朝みると、晩に通ったのが引っかかっていて、皮をはいでよく食べました

鈴:炭焼きのお手伝いで山へ行かれていたときですか?

高:そう。家には囲炉裏があるし、量が多いか少ないかだけで、ほとんどの家が家族で自家用の炭をつくっていました。そして、必ずお葬式には炭が必要でしたから、1人火葬するのに2俵はいるから、必ず2俵はとっておかなくてはいけなかった。

鈴:山へは山菜や木の実もとりにゆかれていましたか?

高:もちろん、子どもの頃からしていました。前までよくトチを拾いに行ってましたけど、もう行かなくなりました。今は山に獣が多くなってしまった。畑にも出てくるくらい多くなった。フキノトウも鹿が食べてるから、糞ばっかり落ちてます。山で食べものを探すより、美味しいものが食べれるから、降りてくるようになった。昔はなかったのですが、人間が食べるものはなんでも食べる。

鈴:甲津原はバイ(チャボガヤ)の木がたくさんありますね。

高:あれはもう冬の必需品ですからね、食用としぼって油にして、あかりにして、とても大事にしていました。
今でも10月8日、9日はバイ捥休み(バイモリヤスミ)といって、実が落ちる前にすべて収穫しないといけない時期が決まっていた。実を集めて、鬼皮を腐らせて、洗って、油屋で油をしぼってもらったんです。食用は灰に1〜2晩つけて灰汁をぬきました。
バイだけでなくヒヨビ(イヌガヤ)というよく似た実があって、ヒヨビのほうが油がよくとれたんです。バイの葉はとげとげしくて刺さるけど、ヒヨビはかたちは同じだけど柔らかい。バイの実はずっと緑のままで柔らかくなるけど、ヒヨビは少しピンク色になるから見分けやすい。
昔はもっとバイの木がありました。田んぼの畦は土手が高くて、雪にも折れなくて強いからみんなバイを植えていました。
今年はバイが豊作でしたね。木を見ると、もう小さな実がついているから、次の年にどれだけ収穫できるかわかる。柿とおなじで裏年があるから、生り年の次の年はそんなにできない。
今は冷凍庫があるけど、昔はいろいろ茹でて干して保存して、それをもどして炊いたりして食べることが多かった。ワラビもゼンマイも、山菜はとにかく干して保存した。塩は貴重だったから、大根や菜っ葉漬けくらいにした。

伝承されてきた大切な神事「オコナイ」

鈴:現在のオコナイは、天満神社の社務所でお餅をつかれていますが、もともとはどうでしたか?

高:オコナイの一年前に選挙をして、餅つきの宿というのをコバのなかで決めるんですよ。そして、宿に決まった家をまわってお餅をついた。
そこの家の女性はそこにいてはダメ、女人禁制でした。神が宿るんですから、穢れたことを絶対してはいけないんです。一年間は精進で気をつかいました。お葬式があっても出ない。そこの家でお葬式があった場合は来年やると言って変わってもらい、もう一度選挙をする。お葬式の家の人は絶対に餅をさわってはいけない。家が穢れていると餅が蒸さない、なんぼ炊いても蒸しあがってこない、そうすると仕方ないから神様に裸参りをする、そういうこともありました。

鈴:先日(2019年2月10日、11日)、実際にオコナイを見させていただきましたが、在所のみなさんがあまり神社へ来られませんでしたが、女人禁制だからですか?

高:女性は中に入らなければいいんですよ。昔は家に結界があるので、そこからは入ったらだめだけど、外から子どもも女性も見ていいです。子どもの頃は楽しみやった。昔はお豆腐や酒や甘酒をふるまって、もっとたくさん人が群がって見入ったんです。

生木でもち米を蒸す

太鼓と鐘のテンポに合わせてお餅をつく

すべてのお餅をつき終えたら伊勢音頭を唄いながら千本づきをおこなう

鈴:やはりオコナイは一番大切な行事ですか?

高:そうだね、神事だからな。昔は「若い衆」がありましたから、18歳になるまでは「マイゴメ(前髪)」といって、小坊主みたいに前髪をつくって、年長になると「コマエ」といって元服するんやな。僕たちの時は9人いたけど、前日にお酒を2升持って、オコナイの宿へ元服の印をいただきにゆくんです。そこで盃をかわして認めてもらい元服すると、半纏(はんてん)といって長着が着れた。
あくる日はお客としてお餅をつきに来るんです。家主に馬鹿にされたとか、そこの家に因縁がある人、気に入らないという人がいると、よく荒れたんです。いろいろありましたが、お客としてそこへ行くので、宿の家ではなにをされても口を出さないという掟がありました。

鈴:お餅をついたあとの臼をあちこちへまわされたようですが。

高:それは「臼まわし」と言って、意地悪をするわけです。臼をまわしながら在所を歩く。川とか狭いところ、拾いにくいところへ臼を落とす。マイゴメが取りに行き、大変なときは幹事といって、年配の人たちが手伝ってあげて、きれいにして、またお餅をつくんです。
2月12、13、14日だから、川に落として、ずぶ濡れになって、寒くて大変でした。臼を何回まわすということはコマエが決めるんです。今年は3回とか、5回とか、だいたい3回はまわす。

鈴:では、今はかなり縮小されたかたちなのですね。

高:縮小縮小、本当にやさしいもんや。他の地域のオコナイさんでは丸もち、鏡餅にしてお供えするんだけど、甲津原ではのし餅にする。

鈴:お餅、ふかふかでとても美味しくてびっくりしました。日が経っても、少しあたためるとつきたてのようなかおりがして、本当に美味しかったです。

高:オコナイのお餅はようついてあるから、ねばるから美味しいんや。例えで、ようついた餅は「オコナイの餅のような」といって褒めることがある。
普通は大変だから、あんなにねばるところまでようつかないですよ。やっぱり餅はつかなあかん、ようけついただけねばりがでて美味しくなる。

鈴:鐘や太鼓のリズムも興味深かったです。こういう神事も画像などの記録がなければなにも残らないですよね。

高:そう、自然消滅だね。

結婚

鈴:ご結婚については、当時は在所のなかで、親同士が決めた人と結婚することが当たりまえだったそうですが、高橋さんもそうでしたか?

高:そうだね、親が決めたほうが多かったね。僕が結婚したのは27歳だった。25歳までは「青年会」で、それまでは「幹事」といって、よほどでなければ結婚しなかったね。
こういう別天地だから、昔は峠を越えて岐阜県との婚姻もよくありました。それ以外は在所のなかで結婚して、分家して、だんだん戸数がふえて何十戸とふえて、在所のなかで分家をしていました。分家をすると田んぼをもち、山を何筆といってもらったりしていました。

甲津原にはお墓がない

鈴:甲津原にはお墓がないそうですね。

高:お葬式も火葬も在所でしていた。自分の母親もそうでした。野良で焼いて、納骨をしに東本願寺か長浜の大通寺へ行ったらそれで終わり、なにもなし。お墓参りもなにもなし。

鈴:昔から自然葬なんですね。

高:骨だけとったらおわり。甲津原はお墓をつくらないという掟だから。わざわざ何百万円もかけてお墓をつくっても、今は後継者もいない、守る人がいないのにどうするんや。
以前、甲津原にも共同のお墓を建てたらどうかと相談を受けたけど、私はあかん、いらんと一番先に反対しました。それは風習やから、先祖代々それを守ってきたんだから、そういう頑固さがないと。ここに住み着いてもらったらお墓はいらんからね。

鈴:なんというか、ふかいですね。私は自分の両親がお墓にこだわらない、のこさないという考えで、ここの風習と合っていますが、きっとのこされた人の心の問題ですよね。在所を出られたお子さんたちが、下でお墓をたてられることはありますよね?

高:ご先祖さまをうやまう、それは結構なことですが、甲津原はそういう習慣だから。下でたてるのは、それはそれぞれの勝手やから、ここにはたてない。僕が死んでも墓参りに帰ってきてもらわなくていらんと子どもたちに言ってるんや。

鈴:大切な人というのは心のなかにずっと生きていますし、ふと空を見上げたときには見守られているように感じられます。けれど、人はなにか対象がないと、拝むにしてもなにかないと、と思うんでしょうね。

高:お墓がなくてもお仏壇さえあればそれでいいんです。そのかわり、お仏壇には法義をかけていますから、そういうふうに考えています。在所の若い人たちも全然そんな話をしないし、今もお墓はないし、ここへ入ってきたらここの習慣にならってもらってると思ってます。

これまでの暮らしとこれからの甲津原

鈴:高橋さんは甲津原で生まれ育ち、今年で86歳をむかえられますが、時代の変化とともに電気やガスが通り、道ができて、なにもかも便利になりました。この86年間は想像ができない生活環境の変化だったと思いますが、いかがでしょうか。

高:昔の生活を体験してきて、今の変わりようは夢のようやね。車社会になるなんて考えてもみなかった。自転車もなかなか買ってもらえない時代だった。とにかく歩く、長浜まで親に連れられて歩きました。御旅所でサーカスがあって、見たいから、親と一緒に甲津原から七曲峠を越えて30kmくらい歩きました。馬車があったけど、高いから、お金もないので歩くんです。

鈴:それは泊りがけですか?

高:泊りがけで、ご坊さんの因講という誰でも泊めてもらえるお寺の宿泊所があったんです。長浜に行くとそこに泊まって帰ってきました。

鈴:これまでに在所を出たいと思われたことは一度もありませんでしたか?

高:ないね、僕たちはこの地を離れるということは全然考えなかった。都会に出ても人間関係からなにまで、生活になじめないです。

鈴:不便さを感じてこなかったということですよね。

高:自分たちの生活が当たり前で、それ以上を望んでもこなかったです。仕事があって食べられて、四季がしっかりあって、環境はいい。
夏が一番いいですね、困るのは冬の雪ですけど、今はそれを利用してスキー場もできて十万人もお客さんが来るということは、昔は考えられんかったね。

鈴:お勤めに出られたことはありますか?

高:ありましたよ、百姓だけでは食べられないから下へ仕事に行ってました。

鈴:昔のように、お子さんやお孫さんと一緒に暮らしたいという思いはありませんか?

高:息子は彦根にいて家も建ててます。田おこし、田植え、収穫のときは帰ってくるのが条件でしたから、田んぼのころには帰ってきます。そして、何かあったとき、雪が降ったら雪おろしに来るし、タイヤの交換もしてくれる。趣味の盆栽が重たいから、冬になると軒下に運んでくれて、また春に出してくれる。それぐらいのことはしてもらわんと笑。
昔は民宿をしていない家は、冬はほとんどスキー場へ雇ってもらった。一冬働くとよい収入になるし、夏もらくに過ごせた。
今は人そのものがいない、だんだん数が減って寂しいですよ。うちの隣も何件か住んでいたのに、亡くなられたり、下に出られたりで、隣がないのが寂しいですね。

鈴:私も、もっと子どもがいたらなと思います。在所を出られた方がもどられることはないのでしょうか。

高:そうや、子どもの声を聞くとほっとする。今は仕事がないからな、大きい会社とか、仕事があればなあ。伊吹山のふもとの会社、大阪セメントが盛んなときは雇用も多かったけど、私の子どもはみんな高校から下宿でした。名古屋や京都へ出て、そこで奥さんをもらって家を建てて、甲津原には限られた人だけが残ってるね。在所を守ってくれる人はとてもありがたい。

鈴:仕事がないと新しい人にいきなり移り住んでもらうには、なかなかハードルが高い土地かと思います。まずは少しずつでも人が訪れる、遊びに来る場所、立ち寄りたくなる場所になればいいなと思います。見晴らしがよいところにベンチがあったり、立ち寄った人が座って、山をながめてぼんやりしたり、お茶をのんだり。小さくてもアスレチックみたいなものがあれば親子連れも遊ぶと思います。
山や自然にかこまれていることが贅沢、自然のなかで体をやすめられる、そんな場所になればと思います。

高:広場の上のところに在所が一望できる、一番見晴らしがよいところがあります。
あそこに道つけてもらって、あがれるようにきれいにしてもらいたいね。

鈴:いいですね。甲津原アーカイ部のウェブサイトでは、ありのままの甲津原、そのままの記録を伝えていきたいなと思っています。
最後に、高橋さんが土地のもので一番好きなものはなにですか?

高:やはりトチ餅が美味しいね、昔からずっと食べてきてるからね。のしにしたトチ餅が一番美味しい。なにもつけずに、本当にトチの風味がわかるから。本当の風味はそのまま食べないといけない、焼いて、ちょっと焦げたところが美味しいんです。
昔は缶に入れていて、何年、何年と書かれていて、古いものから食べてた。まだ林道もついていない昔は、山のなかにトチの大木が何本もありました。木がお金になるときにみんな切ってしまった、とてももったいないことをしたなあと思ってる。

鈴:ちょっと焦げて、野生的な味がとても美味しそうです。甲津原に来て感じたことは、みなさんはとても元気、高齢の方もとても元気、足腰もしっかりされて、畑をされて、昔のこともよく記憶されていて、すごいなと思いました。

高:自然がそのままのこっているし、なにより環境がよいからね。自然のものをたべて、粗食に耐えてきて、足をつかって生きてきたからね。

鈴:86年間ずっと自然とともにある暮らし、すばらしいですね。いろいろお話をお聞かせくださってありがとうございました。

取材日:2019年3月9日
担当:鈴木あき
録音・撮影:布施院博之

コメント

  1. いそかわ より:

    楽しく読まさせて頂きました。
    当時の様子が、目に浮かぶようなインタビューです。

  2. 竹内美枝 より:

    内容が深くて、読み応えありました。
    土地の空気感や高橋さんの人生観も伝わってきました。

  3. トチ餅大好き より:

    俳句や歌を作られていたお話がいいですね。お能を舞われていたのもすごいですね。

    貴重なお話を記録してくださりありがとうございました!

  4. 辻村 耕司 より:

    高橋さん、うちの亡くなった父親と同い年ですね。こちらは琵琶湖に近い周りは田圃が広がる環境なので山村の暮らし、興味深く読みました。
    以前、奥伊吹スキー場の中を美濃への峠道が通っていたとお聞きしました。何と呼ばれていたのでしょう?

    # 文中の“熊の胃”は「熊の胆」ではないでしょうか。
    https://kotobank.jp/word/熊の胆-484963

    • kozuhara2018 kozuhara2018 より:

      お読みくださりありがとうございました。その峠道は文中にもでてきます品又峠かと思います。そして、ご指摘ありがとうございます。熊の胆はおっしゃる通りです、修正しました。