昔ばなし「十二の能面」

昔ばなし

前回とつながる、能面についての昔ばなしをお届けします。
もともとは12面、現存では10面(3面は室町作、5面が安土桃山作、2面が江戸作)、
天満神社におさめられてる面さまは、そもそもどのようにして甲津原へやってきたのでしょうか。
甲津原ではなぜ能が舞われていたのでしょうか。
ご存知の通り、お能は室町時代に観阿弥から世阿弥へと魅力が花ひらき、大成された芸で、現在も観世流として受け継がれています。

甲津原と京の都をむすぶ糸があったのか…
どうぞお楽しみください。

『十二の能面』
(昔ばなし『いろりばた』より)

昔、甲津原に能をよく舞う小倉左近之太夫(さこんのだゆう)という人がありました。
ある時、都へのぼり、たまたま本式の能舞台を見ることができました。
ところが、目をこらして眺めていると、踏み足が一歩足りません。
都の舞とはこういうものかと不思議に思いながら、翌日もう一度確かめたいと、こんどは注意深く見まもりました。
ところが、今日はまた踏み足が一歩多すぎます。

左近太夫は思わず、
「昨日は足らず、今日は過ぎ、今日は昨日の足しまえか。」と言ってしまいました。
ところが、この声が舞台まで聞こえてしまいました。
田舎者のくせにおそれを知らぬ奴郎だと、とうとう舞台にひきすえられました。

「都の舞台にけちをつけるかぎり、お前にも少しは舞の素養もあろう、ここで一つ違えずに舞ってみせよ。
もしまちがえるようなら、どんなめにあうか覚悟をしておけ。」

とつめよられました。
左近太夫は、これは大へんなことになったと後悔しました。
しかしこうなっては後へ引くことはできません。

わしは甲津原に生まれ、甲津原に育った。
都へ上がったことさえ得がたいことであった。
しかも、都の檜舞台で踊ることができたら、たとえまちがっても悔いはない。
甲津原の名誉にかけて、自分のいのちをかけて舞いぬこうと決心しました。

左近太夫はみごとに舞いました。
それは、非のうちどころのない、立派な舞いでした。
都の人々も、そのみごとさに驚き入りました。

こうして左近太夫は、ほうびとしてもらった十二個の能面をもって、いきようようと甲津原に帰って来ました。
十二個の能面は、その後、甲津原の宝として、左近太夫は大切にし、毎日これを拝んで暮らしました。

さて、世代がかわるにつれて、左近太夫の苦労も忘れられ、酒を飲んでは面をつけて舞って遊ぶ人さえ出てきました。
ところがある日、面をつけて遊んだ人の家から火が出て、村は大火にみまわれました。

それ以来、能面はお堂におさめ、大切にまつられることになりました。
この能面をみだりに出したりすると、大火や大嵐があると、今日でもおそれられているのです。

おしまい

*甲津原では、かつて、みんなが舞いを身につけていました。
奥伊吹の自然あふれるなかで、幽玄の美しさを感じてみたいです。

MIHO MUSEUM 「猿楽と面」展(2018年3月10日〜6月3日)にて、門外不出の面さまがすべてならびました。

『甲津原顕教おどり』 2019年6月 甲津原顕教踊保存会 発行。甲津原交流センター喫茶麻心で販売中です。

P.35〜38に掲載、室町作の蒔絵の鼓の胴もあります。

氏神さま 天満神社

コメント

  1. Susan より:

    すてきなお話ですね。ほかの話も気になります。