兆しの感知と「よもぎパン」
寺田匡宏
「たまちゃんの「よもぎパン」」は、よもぎパンをつうじて、未来の兆しを探知する試みであった。
食とは、日々の積み重ねであるが、存在するものをどのように使うかは、個々の料理をする人の創意にかかっている。
あるものがあったとして、それを、どのように味付けし、どのように調理するかは、その人の自由意思による。
レシピがあり、そのレシピ通りに作ったとしても、そこには、必ずある種の揺らぎが生じる。
ゼロ・コンマ数グラム単位の食材の調合や、ゼロ・コンマ数秒の過熱や、ゼロ・コンマ数ミリ・リットル単位の加水など不可能なのであるから、調理には、必ず、その人の個性が出る。
プロの料理人やプロのパティシエであったとしても、毎日、全く同じ味を調理することは不可能であろう。
あるいは、一つの調理単位の中のある一皿と別の一皿、あるいは、ある回に焼いた焼き菓子と、その次の回に焼いた焼き菓子が全く同じ味であるということもないだろう。
創造は、時間と関係する。たとえば、音楽は時間芸術であるといわれる。
ピアニストは演奏会の前に緊張するが、それは、そのピアニストの前に広がっている時間が、これから演奏によって埋められていく時間であり、それは、どのようなものになるかが未知だからである。
仮に、千人の聴衆がいたとして、その千人の聴衆のその時間の体験の質は、そのピアニストにかかっている。
もし、そのピアニストが成功したならば、その千人の聴衆の体験は成功し、そのピアニストが失敗したならば、その千人の時間は台無しになる。
それは、そのピアニストに大きな緊張をもたらす。
もちろん、それは、一面では、そのピアニストがその時間を自らの思いのままに操れるということでもある。
千人の時間を意のままに操ることができるのは、大きな快感をもたらすことでもあろう。
芸術家としてのピアニストの力とはピアノを操作する技術とともに、そのような創造と時間の間の機微を捉えられる力でもあろう。
ここでいう時間とは、未来の可能性のことである。
調理という創造も同じである。調理する時、その人の前には、出来上がった料理はない。
あるのは、現実に存在する食材と、これから出来上がるという料理の可能性である。
調理を行う人は、未だ存在しない、未来の出来上がった料理を思い浮かべて調理を行う。
眼の前にある食材は、調理という過程を経た後には、もうすでに食材ではなく、料理となっている。
食材は、調理というプロセスを経て、料理へと変化する。
食材とは、料理になりうる可能性を秘めた材料である。
食材という材料の中には、料理になることができる可能性あるいは潜在性が秘められている。
可能性が現実性になる過程には、自然な過程もあるが、そこに人が介入することもできる。
それは、人が未来の可能性を自ら開くことである。
甲津原地域は、古来よりよもぎで有名な里である。
この地域では、主によもぎは、もぐさの原料や、よもぎ餅の原料として用いられてきた。
これらの使用法は、伝統的用法であるから、そのように決まっていたともいえる。
しかし、よもぎをそのように用いることは、「自然に」そうであったのではなく、そのつどそのつど発見されてきたもの、つまり誰がそうしたという意味での「人為」であったはずである。
よもぎに薬効を見出すのは、誰かの経験によってでしかない。
よもぎそのものに、薬効があるというラベルが存在するわけではない。
よもぎの中に薬効を見出したのは、誰かであるはずである。
もちろん、その誰かとは、集合的な誰かではあるが、しかし、その集合的な誰かは、微分してゆけば、ある一人の個人に行きつくはずである。
よもぎを誰かが口にしてみる。
すると、よもぎには、体の調子をよくする何かがあるような感じがする。
あるいは、よもぎを傷口に当ててみる。すると血がよく止まることに気づく。
そのようにして、よもぎが薬草であることは知られてきたであろう。
そういった個々人の気付きの積み重ねの先に、よもぎの現在の用い方が伝統として存在する。
よもぎをお茶にする。よもぎをつんで茹でて、それを餅に入れる。
それらのほぼ確立された使用法は長い人々の営為の末にあるものであり、それは文化である。
伝統は、変わらないということはない。
伝統は、少しづつ変わっている。
遺伝子のコピーが寸分たがわぬコピーではなく、必ず変異を含むように、この世の中には、完全なコピーというものは存在しえないであろう。
伝統も、微視的に見れば、かならず変異を含む。
伝統は、人々によって実践されるものであり、その人々とは、それぞれ異なった感性と個性を持つ人々であるからである。
「たまちゃんの「よもぎパン」」において、よもぎは、パンの中に入れられ焼かれる。
よもぎパンは、よもぎ餅ほどポピュラーではないよもぎの用い方である。
そもそも、パンを焼くことは日本においては、それほどポピュラーではなかった。
しかし、次第にパンは家庭の中に入ってきて、炊飯器と同じように、パン焼き器が開発され、窯やオーブンを持たなくとも、キッチンでパンを焼けるようになった。
40年前や50年前の子どもは、家でよもぎパンを毎日食べることなど思いもよらなかっただろう。
しかし、たまちゃんは、毎日よもぎパンを食べることができる。
たまちゃんにとって、よもぎパンは伝統である。
たまちゃんが100才まで生きた時、たまちゃんにとって、よもぎパンは、もう、すでにそこにあったものである。
すでにそこにあったものは、その人にとっては伝統の味だと言ってよい。
伝統は移り変わる。
伝統は、今この瞬間にも作られる。
未来に伝統となるとそれを認識することは、未来の兆しを捉えることである。
いま現在を未来と紐づけて感知することである。
「たまちゃんの「よもぎパン」」を見るとき、わたしたちは、未来が生成している瞬間に立ち会っている。
【筆者紹介】
寺田匡宏 てらだまさひろ
総合地球環境学研究所客員准教授。
人文地球環境学、歴史学。
著書に『カタストロフと時間』、『人は火山に何を見るのか』ほか。
2019年の展示「たまちゃんの「よもぎパン」」の企画を行った。
◯ レポート② → 先祖代々のあじ トチ餅
◯ レポート③ → 山からいただく命/峰越の交流
参考ページ
◯ → 甲津原の歴史
◯ 高橋大吉さんインタビュー → 語りつづる甲津原史
コメント
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