峠を越えなかった赤味噌文化
お味噌汁は郷土料理のひとつ。
お味噌の種類が違うと、馴染みのなさを感じたりします。
私はこれまでずっと、米麹のお味噌汁が日常で、赤味噌といえば名古屋のイメージでした。
甲津原も昔から米麹味噌なのですが、あるときふとした会話から、
おとなりの岐阜県は赤味噌(美濃味噌)文化ということを知りました
峠を越えたらお味噌の味がかわる?
驚きでした。
おとなりの岐阜県とはつながりのふかい甲津原。
3つの峠(品又峠、新穂峠、鳥越峠)を越え、揖斐郡揖斐川町のいくつかの地域と交流していました。
昔は婚姻関係も多く、方言や生活文化、習慣、建築様式などが似ているため、峰越のお付き合いで伝わったといわれています。
赤味噌?黒味噌?
甲津原のおじいさん、おばあさんにお聞きすると、新穂峠を越えて諸家へ行ったときには、お味噌を買って帰られたそうです。
みなさん「黒い、丸い、かたい」と言われます。
買ってきたお味噌でお味噌汁はつくらず、囲炉裏で焼いてご飯のおかずにされたそうです。
「甲津原のとは全然違う、塩が多くて黒い、黒味噌や」
「美濃味噌はカチカチだから、手でくるっと丸めて玉にできる」
「炭焼きでできた木の皮を囲炉裏において、その上に味噌を置いて焼いた。蕗の葉に包んで焼いたりもした」
*揖斐川町の知り合いに情報を求めたところ「美濃味噌は八丁味噌のような甘さはなく、黒くて辛め、学校給食はずっと美濃味噌だった」とのことです。もっとローカルお味噌もあるかもしれないし、私はあまりにも米麹に慣れすぎていたと感じました。
峠道は和紙の道
新穂峠を越えると諸家(揖斐川町)という集落へ到着します。
この峠、現在85歳以上のおじいさん、おばあさんが幼少の頃に行き来したのが最後です。
「もっと前の世代の人は通ってた」
とお聞きする、品又峠と鳥越峠を実際に歩いていた人はすでにおりません。
最後まで歩かれていた新穂峠を越えて諸家へ行くのは、美濃和紙の原材料となる「カジノキ」を運ぶためでした。
和紙に漉いてくれる人へと取り次いでくれるお家があったそうです。
(みなさん「カゴノキ」と言われます)
「昔の家の玄関や窓、すべて障子(和紙)やから」
和紙の原料となるカジノキ(クワ科、コウゾ属)は、田んぼの畔などで育て、毎年伐りとり、蒸して、樹皮をはぎ、乾かして、峠を越えて、漉かれて美濃和紙になります。
貴重な和紙は、それは大切に、穴が空くとその部分だけを修復していたそうです。
「障子からガラスになって、行かなくなったなあ」
和紙をつくる必要がなくなった今では、カジノキも見当たらないそうです。
奥伊吹の自然とともにある甲津原。
麓からの道も少しずつ整備され、時代の変化によって峠を越える必要がなくなり、ついに誰も通らなくなりました。
去年放送された伊吹山テレビの特集では、3つの峠の位置関係がよくわかります。
また、峠にかかわる歴史の紹介や、新穂峠を歩かれた映像もうつります。ぜひご覧ください こちら→
また、峠にかかわる歴史の紹介や、新穂峠を歩かれた映像もうつります。ぜひご覧ください こちら→
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